小説を書く時に、まず最初に意識すべきは「誰の目線で語っていくか」です。人称代名詞の問題でもあります。

例えば、主人公の独白の様な調子で物語を進めていきたいのであれば、一人称「俺は」「私は」などで話を進めますよね。

また逆に、多数の登場人物をそれぞれ鮮明に描きたいのであれば、三人称として「エイブルは」「サスティーナは」など、それぞれの名前で書いていったりもします。

 

ただ、どの人称代名詞(またはその名前自体)を選択するにしても、気をつけなければいけないのが『カメラ視点』です。

一人称で行くのであれば、一部例外はありますが基本的に「主人公が見えている・聞こえている物が全て」です。そこから逸脱してはいけません。

三人称系の語り口で行くのであればそこはある程度自由になりますが、『心のカメラ視点』については若干考えるべき余地があります。

 

今回は、外面・外観等を記す際の『カメラ視点』と、登場人物の心を表すための『心のカメラ視点』の2つについてお話しします。

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カメラ視点の切り替えは、あまり頻繁にしないこと。

理想を言ってしまえば、ある程度短い作品であれば、読者さんの混乱を抑制するためにも、カメラ視点は最初から最後まで同じ、というのが望ましいです。

ある時には主人公視点、ある時にはその友達の視点。そんな風にころころカメラ視点が変わってしまうと、読んでいる方としては落ち着きません。じっくり腰を据えて読めないんですよ。

 

一人称で独白型のスタイルを私は「主観一人称」などと呼んでいますが、主観一人称の場合、とにかく主人公の視点からずれない・ぶれない。それが基本です。

また、主観一人称の場合には、『心のカメラ視点』もまた、必ず主人公自身の思い方・考え方「のみ」で構成します。

でないと、何のために主人公縛りをきつくしているのか、意味が無いからです。主人公に縛るからこそ出来る描写もありますから、そこは存分に活用して頂きたいと思います。

 

主観一人称に対して、もう少し『心のカメラ視点』を緩めた形式を、客観一人称と私は呼んでいます。

例えば、「俺はこう思った」とやれば主観一人称です。それに対して「○○(主人公名)はこう思った」とやりつつカメラ視点は主人公に固定する方法が、客観一人称に当たります。

客観一人称はあまり使う事はないのですが、バリエーションとして持っていても損はしません。

 

いずれにしても、一人称系の場合には、カメラ視点はその運筆それ自体からかなり制限をされるので、あまり逸脱する事は無いと思います。

せいぜい、「主人公の見えていないモノを思わず書いちゃった」という凡ミスをやる位なものかと思います。

 

ですがこれが三人称系の描写となると、自由度が高まる代わりに一気に「間違い」をしてしまう頻度が上がります。

三人称代名詞使用時には、誰は何処まで見えているのか、というのを意識すべし

当然の話と言えば当然の話なんですが、登場人物それぞれに、見えている事・見えていないものがあります。

しかし、物語の展開上どうしても「つい」見えていないはずの事をキャラに言わせてしまったりするミスはありがちです。

 

特に三人称でカメラ視点を頻繁に切り替えていたりすると、段々「神の視点」とも言えるような、誰の心の中も見通してしまう文体にもなりがちです。

神の視点を用いるのは、巨編の大河物だとか、そういうのには向いているんです、神の視点は。けれど、一般的な小説には向きません。

 

あくまでカメラ視点の切り替えは、本当にそれが必要である、という確信を持ってすべきです。安易に適当に変えてはいけません。

心の中をどのように描いていくか ~心のカメラ視点~

心のカメラ視点の問題は、事を更に複雑にします。これは人称に関わらず、難しいポイントでもあります。

例えば、花を拾ったのが契機となってうつ状態がぱあっと良くなった、みたいな情景を描写しようとする、とします。

 

これが主観一人称だと、

 

俺はふと、足元に落ちている花に気付いた。さみしげに一輪だけ咲いたその黄色い花に、俺は自分自身を重ねた。

溜息一つ。俺はしゃがんで、その花に手を伸ばした。掴み、茎から折り取った。風が吹いた。

花から一枚花びらが飛んでいった。黄色い軌跡を残しながら、天に向かって飛んだ。俺は視線でそれを追った。

花びらが見えなくなる頃、俺の中の陰鬱な塊がいつの間にか消えている事に気付いた。一枚花びらが欠けたその花に、再び目をやった。

 

みたいな感じになりますかね。私の筆力は大したことないので伝わるかどうかは怪しいですが。

 

これが三人称系を使うと、こんな感じになったりもします。

 

肩を落とし、陰鬱とした雰囲気の義昭は、ふと公園の端でその歩を止めた。何かを見つけたらしく、動かなくなった。

少しして、溜息をついた義昭は膝を折ってしゃがみ込んだ。そして、義昭の前に咲いていた黄色い小さな花に手を伸ばし、ちぎり取った。

その時、ひゅうと強い風が吹いた。義昭の手の中にある花からひとひらの花びらが宙に舞った。義昭はそれを目で追った。

義昭は飛んでいく花びらに導かれるようにゆっくり立ち上がり、空を見続けていた。

しばらく空を見ていた義昭は唐突に、その手の中にある花に目線を落とした。何か信じられない事が起きたかのように、空と手の中とを目線が往復している。

 

書いている内容は大体一緒なんですが、「陰鬱」それ自体をどう描写するか、という扱いが違ってきます。

主観の場合は、そもそも「今の俺はうつなんだが」と書いてしまうと、書きすぎです。

だから冒頭にうつである事を示しづらい。対して客観系だと、それはいとも簡単に出来ます。

 

一方で、主観系であれば、うつが抜けていった様子をダイレクトな心の声として書いてしまうことが出来ます。

それに対して、客観系の場合には、「義昭」の挙動で示さなければならないので難易度は上がります。

 

どちらが適しているか、という問題では無く、これは寧ろ「著者のスタイル」に寄る部分が大きいと私は思っています。

得意・不得意もあるでしょうし、どちらの人称で話を進めるか、というのは、全く小説自体のスタイルそのものですので、それを如何に自分の土俵でやれるか、というのは、ストーリーテラーとしての腕の見せ所です。

 

独白型にしてしまえば何でも書ける……と思われがちなんですが、あなた自身の事を考えてもらえば分かる様に、人は誰しも、いつでも自分の事を深く掘り下げている訳ではありません。

マックでハンバーガー買うときに牛の屠殺所の事を深く考えている人なんていないでしょう。何食べよう、とただそれだけで頭一杯のはずです。クーポンあるかな、位はありそうですが。

ただ、客観系にしてしまうと「更に描写はしづらい」のは間違いないです。勿論慣れの問題もあるので絶対とは言いませんが、慣れないうちは客観系の扱いは苦労します。

 

でも、客観系のカメラワークが出来るようになると、それだけでも物語をかなりダイナミックに動かす事が出来るようになります。

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説明をせずに、描写をすること

基本的にはこれに尽きます。

まだ私自身この部分は弱いんですが、つい説明で片付けてしまわずに、何がどうなってそうなるのか、というのを「描写」する事が大切です。

 

例えば先ほどの黄色い花の例を取れば、黄色い花びらが飛んでいったら「何故か分からないけれど」変化が起こった訳です。

しかし、物語をこのままほったらかしにして進めるのも不親切です。何故そうなったのか、場合によりけりですけれど、描写による説明が必要になりそうなものです。

例えば、義昭の幼少期に似たような出来事がありましたー、だとか、そういった話を差し挟む的な。何が最適解かはそれぞれ小説家さんの数だけ答えはありそうですが。

 

ただ「敢えて」説明も描写も無しで突っ走る、という選択肢もありです、このような場面の場合には。

このシーンでうつが消えた義昭の「その後の行動が今までと違う」という内容を書いていけるのであれば、描写不要、と判断する事も出来るのです。

 

ただどうにしようが、説明文調だけはやめましょう。うつが晴れました、みたいな一文を書いてしまったら、そこまでです。

描写と言うからには、それぞれ人称代名詞に沿った「世界の見え方」を語って初めて描写です。ダイレクトに書いたら説明になります。

まとめ 人称とカメラ

私の場合、人称についての区分は以下の様に分けています。

 

主観一人称

客観一人称

主観三人称

客観三人称(神の視点)

 

これらを物語単位で使い分けて小説を書いています。上3つはそれ程苦労しないんですが、神の視点は未だ使いこなせていません。

この4つの人称タイプによって、全てカメラワークが変わってきます。まずはそれぞれに対しての慣れを持つ事が、小説上達の早道だと私は思います。

 

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